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ニュートン的時間

どうすれば時間に追われずに生活できるのかな。自由な時間はいつやってくるのだろう。

『不便益のススメ』という本を読んでいるときに、ニュートンとライプニッツでは時間の捉え方が違うという話がでてきた。ニュートンの考える時間は、今私たちが社会生活を送っているなかで当然とされる絶対的なものとしての時間。つまり、人間の主観とは関係なく一定速で流れるもののこと。対して、ライプニッツは時間とはモノが移り変わる継起の順序であると考えたそう。まあ、場面の変化みたいに理解すればいいのかな。

著者の川上浩司さんは、時計を持たないという一見「不便な」生活をしていると、ニュートン的な時間に追われずに生活できるので「便益」を感じられるということをに触れている。

この話には共感するところもあるし、事実その通りだと思うのだけどなにか違うと思う。私たちはニュートン的な時間で「社会」生活を送っているのだから、その時間から解放されれば「個人」的な主観的な世界に浸れるのは当然のこと。時計を持たないという行為は、ニュートン的時間からその人を解放する。でも、社会は依然としてニュートン的時間で動かざるを得ない。すべての人が時計を持たなければ万事が解決されるのかというとそうではない(もちろん社会を犠牲にするというのなら話は別であるが)。

結局のところ、社会は社会であるために道具を個人に与える。道具の放棄は個人の解放をもたらすが社会は残り続ける。ニュートン的時間によって悩まされる私たちは、ニュートン的時間に変わる絶対的なものを見いださない限りは、時間から解放された個人を夢見るのではなく、時間に定義されない個人のあり方を探るべきなのかもしれない。

2021/2/13