身分制度の消滅は私たちを生まれながらにして、特定の身分に固定されることからの解放をもたらした。今、私たちには職業選択の自由が存在する。何かになりたいと思えば制度的には何にでもなれる。もちろん家庭環境がその子供の職業選択に与える影響はあるから、全くもってしがらみが無くなったというわけじゃない。こうした点は社会学や経済学においてもこれまで言及されててきた。
身分制度の消滅は、社会階層Aと社会階層Bの交代可能性をもたらした。でも、最近この交代のあり方に問題があるのではないかと考えるようになった。ある階級や文化的集団に生まれた個人が、それ以外の集団に帰属することを可能にしたのが身分制度の消滅の実体なのではないのかな。つまり、親世代と子世代の間に必然的連続性はなく、そこでは個人の自由が尊重される。子供は自分のなりたい職業を選択できる。つまり自由に身分を選択できるようになったということ。当然ながら、親も子供の幸福を願うので子供のためにお金をつぎ込み、より良い身分に自分の子供がつけるように精一杯の努力をする。
上記の考え方は、別の言葉で表現すれば「機会の平等」ともいえる。つまり、どのような家庭、階層、社会集団に生まれようと、何人にも挑戦する権利が与えられている。ただ、問題はこの機会の平等には上記でも述べたように「親からの自立」、もう少しきつい表現をすれば「親の否定」の論理が背後にあるということ。
ばるにとって「親の否定による自由」という考え方は受け入れることができない。ばるは学問が好き。学問をしたいという欲求はおそらくばるにとって揺るぎないもの。だから学者になりたかった。でも、ある人の言葉でこの考え方に問題があることに気づいてしまった。ばるの自由を尊重してくれたけど、その人は学問をする自由を獲得するためには「親の否定」が必要だと語った。
親の否定とは、親の身分の否定ということ。なぜ、私たちは親の身分を否定しなければ自由になれないのだろう。答えは明白。身分が行為を規定しているから。正しくはXという身分がXする時間をおおむね占有しているから。
だけどここでよく考えてみたい。ばるはただ学問をしたいだけだった。学問ができるのであれば、その方法はどのようなものであろうと構わないはず。しかしながら、現実的に学問をするということは、学者になるということと等しいとされてる。ある特定の「地位・身分」が特定の行為をする時間を占有するということは自然なことなのだろうか。
よく異なる立場の人々の気持ちを想像することが大事だといわれる。私たちはその立場になる可能性が無いわけではないのだからと。でも考えてみたい。なぜ想像する必要があるのかを。そもそも、想像してみなければ理解できないような立場におかれている人がこの世の中に存在しているということ事態が不条理なのではないかな。想像が必要な場面とは、ある特定の立場が一方の人間によって占有されているときではないの?
ばるたちが目指すべきは、そもそも想像しなければ解決できないような事態を減らしていくことかもしれない。そのためには、一見すると自然とされている「身分と時間」の関係を再考する必要があるのかもしれない。
2021/2/21