・フランソワ・ジュリアン(2017)『道徳を基礎づける』、講談社。(※講談社学術文庫版)
本書は、友人に勧められておそらく2年くらい前に買った本ですけど、「責任」とか「倫理」とかについて考えるにあたって読み返すことが多くなってきたので、少しづつこの読書録で触れていきたいと思います。本書の内容をごく簡単に説明すると、西洋思想(カント・ルソー・ニーチェ)と中国思想(孟子)を対比させながら道徳について考えていくものです。
今回触れるのは第9章です。この章では責任という概念に対する思想の違いが述べられています。いったい私たちはどうすれば責任をとることができるのでしょうか。誰もが責任について語りますが、この責任という言葉が意味するところについては大きな振れ幅があるように思えてなりません。
本章において、中国思想において重要な概念として出てくるのが「憂い」という感情です。対して西洋思想のそれは「罪」という感情です。この違いが「反省」や「自らに返る」という言葉が意味する内容に大きな差を生み出すということについて見ていきたいと思います。
私たちは日常生活においても「責任」と「反省」を対として捉えられることが多いと思います。反省していない人間が、責任を感じていたり、責任をとっているとは思わないでしょう。ただし、この時「反省」という行為については、二通りの解釈ができるということに気づきます。一つ目の解釈は、自分の行為が正しくなかったことを自覚するという意味での「反省」です。もう一つの解釈は、反省することで自分の行為は正しかったのかと考えるという意味での「反省」です。
先の中国思想における「憂い」の感情は一つ目の解釈と深いつながりを持っています。中国思想においては「憂」うことは人間的であること「仁」を育てるうえで重要なものとされてきたとジュリアンは述べています。自分が他者から酷い扱いを受けようとも、それは己の仁が不十分であるからだと思うこと、そこに「憂い」の感情が生まれるといいます。洪水で溺死者が発生すれば、天下に対して責任を感じ、自らの責務を果たそうとする。孟子が説いた責任とは、義務・任務に対する責任であり、自らに返ってその行動を吟味するということは自分の不十分さを反省しつつ、心にあらかじめ備わった仁を育てていくことにあるのです。
2021/8/12