ゲーム的に生活しすぎるのも良くない気がするのにゃ……
日々、様々な選択肢に直面して、どのボタンを押すのか迷って、ボタンをうっかり押し間違えるとゲームオーバー。人生にはセーブボタンがにゃいから、「人生なんてクソゲー」とか思いたくなるのもわかる気がするにゃ。
対処策として、「リバタリアン・パターナリズム」っていう思想が最近はやってるにゃ。みゃあ、ゲーム的にいえば、オープンワールドゲームにおける開発者が用意したストーリーみたいなものにゃ。自由気ままにストーリー度外視で遊んでもいいけど、「ストーリー通りに進めたら楽しいよ」ってさりげなく背中を押す感じにゃん。
ただにゃん、これだけが人生を幸せにする方法だとは思いたくないのにゃん。思想は現実化するにゃん。もっと簡単な方法があることに気がつくべきにゃん。ゲームしなければいいのにゃん。
もちろん、別に生きるのをあきらめろって意味じゃないのにゃん。そもそも、ボタンを押さにゃいっていう選択も時には考えたらどうかにゃってこと。
見せても問題のにゃい選択肢を全て、ゲームの世界の住人に示したらいいのにゃ。そうすればゲームがバグって、このゲーム的な世界は自然と消滅するのにゃん。
2020/6/8
少しばかり、ゲーム的とはどういうことかについて考えてみたいのにゃ。今回は、ゲンロン8¹でさやわか氏が触れているゲームの定義を参考に話を進めていくにゃん。
さやわか氏は、ゲームの要素に「ボタンを押すと反応する」点があるとし、ゲームの本質はインタラクションであると述べているのにゃ。この定義は、経済学で用いられるゲーム理論ともある程度結びつけて考えることができる良い定義だと思うし、ばるも同意できるものだったので参考にさせてもらうのにゃ。
ではこれをふまえて、なぜ世の中がゲーム的になってしまうのかについて考えるのにゃ。そこでまず、ゲームが成立する「反応」とはどのようなものかについて考察すると、それは大きく3つの条件を満たしたものだと推測されるのにゃ。①双方向性が保たれていること、②反応のパターンが有限であり予測可能であること、③事前にどのような反応がくるのかの情報を完全には知りえないことにゃ。(なお、この3条件は経験則であって、必ずしも正しいとは限らないので注意してほしいのにゃ。)
すなわち逆にゲーム的にならないものは、①一方向であるもの、②双方向であっても規則性を見いだせないもの、③双方向でも反応が事前に予知できるもの、ということにゃ。
さて、今回は双方向性だけに焦点を絞って考えるにゃ。現実の人間の行動において、双方向ではなく厳密に一方向であるものというものは限られているのにゃ。たしかに通信技術としての双方向性の確立という意味では、インターネットが出現する前の時代は一方向なものが多かったといえるにゃ。ラジオ・テレビといった通信は一方向の代表例としてあげられるけど、テレビにおいても我々はチャンネルというボタンを押しているにゃん。そして、その結果は視聴率というかたちで放送局にデータが送られいたといえるにゃ。
さて、このことから双方向性と関連性の高いキーワードが浮かび上がってくるのにゃ。それは有限性にゃ。
2020/6/23
1.東浩紀編(2018)『ゲンロン8 ゲームの時代』、ゲンロン。
前回はゲーム的とは双方向性であり、双方向性には有限性が深く関わっているという話をしたにゃん。今回は、この有限性について深く考えていきたいと思うのにゃ。
世の中をゲーム的にしている要因となる有限性は大きく2つ存在するのにゃ。それは、時間と空間の2つにゃ。まず「時間」だけど、人間にとって時間とは絶対的には有限なものにゃ。1年は365日、1日は24時間であり、1時間は60分、1分は60秒というような感覚でばる達は生きているのにゃ。時間がこのように有限であるから、当然ながらその時間内でできることも有限になるのにゃ。すると、テレビやラジオのように複数のチャンネルが平行して存在している場合、ばる達はどれかのチャンネルを選択するという行動をせざるを得ないのにゃ。
インターネット上のコンテンツは、テレビやラジオのようにある特定の時間にしか特定のコンテンツが存在しないということはないので、後から見る、読むという行動が簡単にとれるにゃ。一見すると、時間という制約から抜け出しているかのように思うかもしれないけれど、結果的には人間の時間的、空間的有限性からは逃れることができないのにゃ。まず、後から見ることができるといっても人生は有限であるため、結局は取捨選択を余儀なくされるのにゃ。また人間が一度に認識することができる空間にも限界があるので、検索サイトでキーワードを入力して出てきた情報の中から選ぶという行為を介さないと、このインターネットという空間で迷うことなく行動することすらもできなくなるのにゃ。
さて、ここまで話を振り返ると、この有限性という概念のある特徴に気づくことができるのにゃ。それは、時間的、空間的有限性は行為の意図に先だって意識することはないということにゃ。テレビを見るという意図がなければ、そもそも複数ある番組の中から選択を余儀なくされることはない。ある事柄について調べたいという意図がなければ、情報を取捨選択するという行為もなく、人間の時間的、空間的認識能力の有限性にも気づかされることはないのにゃ。
何もすることが無いときに時間が無限のように長く感じられるということは誰でも経験があると思うのだけど、それは時間の有限性という概念(感覚)が上述のように行為の意図に由来するからなのにゃ。行為を意図した結果として、時間的、空間的有限性感覚が生じ、必然的に双方向性のあるゲーム的世界が立ち現れるとするならば、ゲーム的でない世界は存在しうるのかにゃ?
ゲーム的な行為は意図を伴う。意図のない行為であれば、世界はゲーム的にならない。今、ばるは危険な領域に足を踏み入れているような感覚に包まれているのだけど、「意図」というこの概念が、人間の行動にとってどのような意味を持っているのかを探る必要があると思えてくるのにゃ。次回は、前回話したゲーム的でない行為の3条件と「意図」の関係性について掘り下げていきたいと思うのにゃん。
2020/8/2
さて、今回は行為の「意図」と非ゲーム的3条件との関係性について考えていきたいと思うのにゃ。非ゲーム的3条件は、①一方向であるもの、②双方向であっても規則性を見いだせないもの、③双方向でも反応が事前に予知できるもの、の3つであったにゃ。
まず、一方向である状況について考えてみたいのにゃ。前回、意図が時間的・空間的有限性を生みだし、それが双方向性のあるゲーム的世界を生み出すのではないのかという仮説を提示したのにゃ。では、一方向である状況において「意図」と呼びうるものが存在しないといえるのかについて考えてみたいのにゃ。一方向とは、「反応がない」ということなので、手始めに次のような状況を考えてみたいのにゃ。現実世界において、「私は勇者になりこの世界を支配する魔王を倒す」と決めたX氏がいたとするにゃ。問題はこれが「意図」と呼べるのかという点にゃんだけど、まずこの世界には魔王は存在しないし、社会的な身分として勇者になることもできないため、第三者からすればこのX氏は少し頭のおかしい「夢見る」人間という判断を下され無視されると考えられるにゃ。ここでいう「夢見る」とは、意図しても無意味な意図という意味に近い。つまり、意図ではあるがゲーム的状況における「意図」と異なるものであると言えるのにゃ。
今の話は少し極端な例であったため、もう少し現実的な例をあげてみたいと思うのにゃ。Y氏は「英語を習得するために勉強する」と決めたとするのにゃ。こうした勉強・習得・学びといった行為は孤独な行為であり、インタラクションのあるゲーム的行為とは異なるものと考えられるのにゃ。実際に、Y氏が英語を習得していくにつれて、英語という言語が反応するということはありえないのにゃ。Y氏は現にある英語という言語をただ身につけているだけであるため、その過程において何か選択を迫られたりすることはまずないのにゃ。ただ、Y氏の人生には限りがあるので、最終的に身につけることができる言語能力は限界があるのにゃ。つまり、Y氏が英語を習得しようと意図した場合、時間的有限性を認識することはありうるのにゃ。ただし、それがゲーム的状況を生み出すとは限らないのにゃ。
上の2つの例を考慮すると、ゲーム的状況を生み出す「意図」とそうでない意図があることが分かるのにゃ。インターネット・テレビ・ラジオ等のコンテンツ消費にはあって、夢見ることや学びにはないもの、それは意図の意味を共有する他者、言い替えれば意図が意味をもつ世界(時空間)に共存する他者の存在にゃ。X氏もたしかに現実世界においては単なる夢見がちな人という扱いになるけど、RPGの世界においてはその意図を共有して行動するNPCや他のプレイヤーがいるので「意図」をもつ人間になるのにゃ。また、Y氏についても同じように英語を習得しようとするZ氏が存在しており、Z氏の行動がY氏に影響を及ぼすと考えられるとき(例えばY氏はZ氏よりもより英語ができなければ駄目だと考えている状況など)Y氏の「意図」はゲーム的状況を生むといえるのにゃ。
さて以上より、ここにおける行為者の「意図」の有無は、その本人の意志とは本質的には関係のないことであることも分かるのにゃ。私たちは、ゲームというとビデオゲーム等を想像して積極的にするものというイメージを抱きがちだが、必ずしもそうではないのにゃ。その世界に、ある行為を同等の意味空間・時空間において行為している人間が2人以上いる時点で、その人の行為は「意図」のある行為とみなされる。即ち、人はゲームをするのではなく、ゲームをさせられているのでもなく、人はゲームをしているのである。
今回はここまでにして、次回は「意図」と残りの2条件との関係について考えていきたいと思うのにゃ。
2020/9/13