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演じる

「演じる」とは「偽る」ことにゃのか。ばるがこの行為を肯定的に捉えることができない理由はこうした疑問に端を発するのにゃ。さて、この考え方は真の存在を前提としているのにゃ。「親にとって理想的な自分を演じている」といった表現のように、真の主体が偽の主体を装うという意味で演じるという言葉が使われていると思うことはしばしばあるのにゃ。だけど、何かが違う気がするのにゃ。今回はこのことについて考えていきたいのにゃ。

この話をするのは、以前友人と話していたときに演じることに対する考え方がばるとは違うことを実感したからにゃん。友人によると、演じるという行為はそれを見る人(演劇・映画なら観客、日常生活なら相手)に多様な解釈をもたらす、この行為は日常的に溢れていて「やさしい嘘」とはまた異なるものであるということにゃ。前者はひとまずおいといて、後者について考えてみたいのにゃ。

「演じる」的なことは日常生活においてもよく見られるもので「嘘」とは異なる。この話を聞いたあとに、ふと思い出したのは平野啓一郎氏の「分人」という発想にゃ¹。平野氏は偽りの自分に対する本当の自分というものはなく、人は他者と出会ったときにその他者との相互作用のなかで分人をつくりだし、個人は複数の分人で構成されているという話をしているのにゃ。この分人主義という考え方についてばるは、単一の真の主体(個人)が偽の主体を演じるということではなく、複数の真の主体(分人)が自然と生じるという見方だと感じたのにゃ。

平野氏の分人主義は、演じることについて考える上で良い糸口になると思うのにゃ。あるコミュニティ(学校・会社など)において居心地の悪さや満たされない感覚を感じたとき、自分はキャラを演じていると割り切って本当の自分は別にいると考えることがあるがそれは違うと平野氏は言っているのにゃ。なぜなら、ある空間にいるとき人は無理をして意識的にキャラを演じ分けているということはないからなのにゃ。ただ「そうなった」としか言いようがないということにゃ。平野氏のメッセージは、人間の顔(人格・性格)は他者との関係性において生まれるもので、そこに「偽」はなく、演じているわけでもなく、すべてが「真」であるから、悩むことなく肯定的にとらえたらどうだろうかというものにゃ。

さて、以上のことからあることが導き出されるのにゃ。ある場における行為が「偽」であると感じられるためには、別の場が必要であるということ。そして、その場はその人にとって心地よい空間である必要があるということ。その場からもとの場の行為を見ると「作為」が感じられるということにゃ。つまり、「演じる」は事後的に「偽」という意味を付与されてしまうことがあるが、「演じる」がまさに今起きている場面においてはただ「演じる」が存在するだけであるということにゃ。では、「演じる」となんにゃのか?

「演じる(平野氏はその行為を演じるとは言っていないが)分人」はすべて「真」であるとはどういうことにゃのか。まず手始めにここから考えていきたいと思うのにゃ。おそらく、平野氏の考えに沿うならば「真」とは「他者との関わりを通して生じたもの」と言う意味になるのにゃ。重要なのは「作為」の不在にゃ。この考え方にはある程度同意することができるのだけど、少し疑問があるのにゃ。先にも述べたように、「演じる」から「作為」を感じるのは異なる時空間からその行為を眺めたときであったのにゃ。平野氏の戦略は、異なる時空間から眺めたりその行為を評価することをやめるものにゃ。だから、そこに「作為」は存在しない。ばるが疑問を感じるのはここにゃ。「作為」すなわち「偽」は眺めるという行為によって感じられた。それならば眺めることをやめたとき、ある行為を「真偽」で判定するということ自体ができなくなるのではにゃいのか。つまり「作為」の生じる条件がなくなることによって「真」が生じるというのには疑問を感じるのにゃ。

以上から、一度「演じる」を「真偽」の枠組みからとらえることから離れる必要性があると思われるのにゃ。そこで、人は「演じる」ときに何をしているのかについて考えてみたいのにゃ。というわけで今日はここまでにゃ。

2020/11/1

1.平野啓一郎(2012)『私とは何か―「個人」から「分人」へ』、講談社。

「その人」の存在

人は日常的に「演じて」いるけど、嘘じゃない。では「演じる」とは何をしていることなのだろう。演じるということは、役を果たすというようにも理解することができる。でも今回はあえてこの考え方から離れてみたい。なぜなら、この役を演じるという考え方が前回話したような「演じる」ことを「真偽」の枠組みとして捉えることにつなげてしまう一つの原因だと思われるからだ。

「演じる」を「役」とつなげて考えると、なぜ問題が発生するのだろうか。それは演じるという行為を、主体(S)が対象(O)を演じる(V)という図式で捉えると、対象とは異なる存在としての主体が想定される。これにより、対象を「偽」であると感じてしまう。

ここで「演じる」ことは物理的に何をしていることと言えるのか考えてみたい。演じるとき人は「身体」を使ってふるまったり、「言葉」を使って話をしたりする。つまり、メディア論的に考えると「演じる」とは「身体」と「言葉」を手段・媒体としたコミュニケーションといえる。ここで重要なことは、この「身体」と「言葉」を少なくとも2人の人間が同時に見聞きしているという点だ。演劇・舞台であれば演技者と観客であり、日常的な場面では私とその場にいる他者となる。

さて、ここからが本題である。「身体」と「言葉」を自己と他者が見聞きしている状況というのにはさまざまなパターンが考えられる。たとえば、自分が街中を独り言をつぶやきながら歩いていたときに、たまたますれ違った他者がその様子を見ていた、という状況。これは「演じる」に値するのかと問われると、そうではないと答えるのが妥当だと思われる。しかしながら、演劇などにおいて演技者が街中を歩いて独り言をしている場面があり、それを観客が見た場合は「演じている」ことになるだろう。

このように考えると、「役」を果たしているから「演じる」が成立すると結論したくなるかもしれない。だが、そうすると最初に述べたように日常的な「演じる」が偽りの意味を帯びてしまう。何かあらかじめ「役」の性質が存在するかのような感覚をいだいてしまう。つまり、昨今よく問題視される「らしさ」的なものが「役」と一体化するのではないだろうか。

たしかに演劇においては、演技者は役の「らしさ」を上手く表現することが重要となる。ただ、ここでの「らしさ」というのは、そこに演技者ではなく役がいるということを演技者と観客が双方が納得するということを指し示していると考えられる。なぜならば、この「らしさ」が役の性質であるとすると、明らかな矛盾が生じるからである。たとえば、複数の大河ドラマなどを見ていると分かるように、同じ歴史上の偉人に対しての演じられ方が各ドラマの俳優によってそれぞれ異なるにも関わらず、たしかに「その人」がそこにいると私たちは感じることができる。

先の話については、日常生活でも同じことがいえる。これは友人が話していたことだが、会社の人が自分に対して抱いている印象を少しずつ変化させることが可能だという。はじめ入社したてのときはお堅い印象を抱かれていたとしても、試し試しにふるまい方を少しずつ変えていくことで、相手が自分に対して抱いている印象を違うものにすることができるそうだ。

以上のことをふまえると「演じる」の根本にあるのは、身体表現、言語表現を通して「その人」がたしかにそこに存在しているいるという感覚を私と他者が認め合うということにあるのではないのだろうか。

ばるの友人のように、自分のお堅いイメージが「その人」でないと思う場合は少しずつふるまい方を変えることで、友人と他者双方ともに納得のいく「その人」が生まれるだろう。逆にばるのように、世間一般的に真面目とみなされるふるまいをすることが苦痛でもなく、それが「その人」であるとばる自身も思っている場合は、その状態で既に「演じる」が成立しているのかもしれない。

2021/7/18