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何かになること

「何かになる」ということへの恐怖。ばるは最近、何かになることを今まで無意識に避けてきたのではないかと思うようになったのにゃ。何者になるかよりも「何をしたいのか」に重きをおいて生きてきたのにゃ。そして何者かになることを強制されること、自ら進んで何者かになることを嫌っていたのにゃ。これについて考えたことを今回は述べたいと思うにゃ。

ばるの恐怖心は「決断」にたいする抵抗感と根底でつながっていることに気がついたのにゃ。何かになるときには大きな決断が必ず伴うけど、何かをすることは続けることができるかどうかは別にして決断自体はあまり必要にゃい。おそらくそれは、何かになるということによって失われるものがあまりにも大きいからなのにゃ。雑記帳「身分と時間」で書いた内容もそういうこと。

失うことへの恐怖。ある可能性をとることにより、他の可能性を捨てざるを得ないことにたいする拒絶。そして、これに必要なことは「赦し」であるということを最近確信したのにゃ。アレントからヘーゲルの思想、そして千葉雅也の『現代思想入門』のデリダ考。すべてに共通していることは、行為への赦しの重要性だったのにゃ。

行為内容を許すことと行為自体を赦すことを混同していたにゃ。おそらくどのような社会になっても、どんな時代においても行為内容を許せないという感情は存在し続ける。でも、行為自体が赦されることによって行為内容への気持ちが和らぐことがあるのにゃ。たとえ決断内容を許せなくても決断自体は赦すこと。そして決断しなかったという決断をも赦すこと。

「何かになる」のは、別の何かになる可能性を残すことでもあるのにゃ。別の何かは失われるわけではなく、忘れ去られるわけでもなく、いつでも立ち寄ることができるそういった存在なのにゃ。逆に何かにならずすべてを並列に扱うことは、重たい負荷としてのしかかる。「何かになる」ことによってお互いが救われる、そうした世界があることは大事なのかもしれないのにゃ。

2022/4/29